「神に喜ばれる姿」 02.02.17 米田芳生神学生
マルコによる福音書10:13〜16
主イエスは、「子供のようになりなさい」と教えられる。
主イエスがこの世で歩まれた時代、子供達は人間としての存在すら保証され
ない程であった。
しかしイエスは、子供達をそのまま受け入れ、子供達にこそ神の国を約束された。
14節のイエスの言葉は、我々人間にとって希望の原則を含んでいる。
なぜなら、神様は救いを人間の業績に応じて与えるのではなく、必要に応じて
与えて下さる事が理解されるからである。
従って、全く神に依存せざるを得ない、或いは委ねざるをえない子供のような
小さな者がその恵みに与る(あずかる)ことが許されるのである。
主イエスが語られる、「子供のように」とは、「委ねきる」、そこにしか、それが
なければ生きていく事は出来ないという神様への絶対的な信頼を持つ姿である。
しかし、この姿は、神によって創られた人類全ての本来あるべき姿なのである。
主イエスは、弟子達に憤られた。それは傲慢に縛られイエスの教えとは反対に歩む
姿を示したからであった。
しかし、憤られる姿を通しての反省と同時に希望となる姿をも聖書は記している。
それは、主イエスが「子供達を抱き上げ、手を置いて祝福された」姿である。
なぜなら主イエスが、何の値もない子供たちに手を置いて祝福されたように、
我々も値なしにこのように生かされているお互いである事が示されるからである。
さらに主イエスは、御手(みて)を通して祝福し任命されるのである。
我々も命の道へ歩むようにと任命されたお互いであり、神の祝福は重く、消える事は
決してない。
また、主イエスの祝福を求める願いに生きる者は、自らをその祝福の手の下に
置こうと、傲慢にならず自分がひざまずく。まさしくイエスの言われる幼子の姿と
なるのである。
私達も、常に神に喜ばれる、神に委ねきる心を持って生きていかなくてはならない。
そこに立つのならば、私達の歩む道は、神による勝利と無限の希望の中に
あり続ける。主による御手によって任命を受けた者として、天の父の御許に帰る時
まで与えられた使命の場所で証人となって強く歩む者でありたい。